非日常へのこだわり
2012/02/10 20:25:10
今までのエントリーは比較的、客観的にSMについての
お話を書いてきましたが、そろそろ私の個人的
趣向や考え方などについても書いてみたいと思います。
今回は私の「非日常へのこだわり」について書きます。
広い世界の一つの事例として
参考程度にお読みいただければうれしいです。
お話を書いてきましたが、そろそろ私の個人的
趣向や考え方などについても書いてみたいと思います。
今回は私の「非日常へのこだわり」について書きます。
広い世界の一つの事例として
参考程度にお読みいただければうれしいです。
SMが性癖であり、その性質に自覚的になったときに
人が取る行動は大きく二つに分かれます。
一つは「SMを日常として生きる」道であり、
もう一つは「SMを非日常として生きる」道です。
そして私は、SMの非日常性にとてもこだわりをもっています。
といっても「SMを日常として生きている」方たちを否定する
気持ちはまったくありません。むしろ尊敬の念を抱いています。
夫婦のSMカップルなどはその最たるもので、
そういったお二人のお話は本当に勉強になります。
私が仲良くさせていただいている数少ないS男性のうちのお一人も
「SMを日常として生きる」道を選ばれた方です。
この方は自分の変え難いS性に気づいたときに
「通常の恋愛も結婚もあきらめよう、その変わりSMに生きる」と
覚悟を決められたといいます。
その腹のくくり方本当に尊敬できます。
けれども、だからといって私が
「SMを日常として生きること」が出来ないから「非日常にしている」
のかというと、それはそうではないのです。
私にとっては、SMは非日常であるべきで、非日常であるから大切なものなのです。
そう、太陽の降り注ぐ青空に、ひっそりと輝く銀色の月のように。
そのこだわりはS男性の中でもかなり明確な方だと思います。
私は、私の奴隷に自分の本名、仕事の具体的内容、住所、家族構成、
携帯電話番号など自分の日常を一切教えません。
また奴隷についても、調教上必要な情報以外のことを
私から知ろうとはしません。
基本的にメールだけが私と奴隷、つまり日常と非日常をつなぐ
細い糸の役割を果たします。
私がここまで非日常にこだわるのかの理由はいくつかあります。
まず、「SMは構造的に非生産的な依存関係を生み出しやすい」
ことがあげられます。
私は私の奴隷に対して、私の支配に絶対的な服従を捧げることを求めます
けれども、私に依存することは求めません。
服従することと依存することは似ていますが全く違うものです。
服従とは一個の独立した存在が、誰かの足元に跪くことを
自分の意思で選択し、自らの考えで自らを捧げることです。
一方、依存とは一個の独立した存在であることを放棄して
誰かと融合し、溶け合おうとする欲求に他なりません。
SMや主従関係というのは、この依存関係が発生しやすい
構造をしています。まあそうですよね、一方に絶対的な権限がある
わけですから。
奴隷が主に依存するだけならばまだましですが、実は主も
奴隷に依存してしまうことが、本当によくあります。
それは主が奴隷の存在を自らの自尊感情を満たすために
必要不可欠な存在と感じてしまうことでよくおこります。
こういった相互の依存関係を「共依存」といいます。
私は主従関係に「依存」は不要なものだと思っています。
まあある程度の「依存」なら仕方のない部分があるとは
思いますが、過度の依存は関係性自体を崩壊させる結果を
招くものだと思っています。
主従関係が日常生活の中に存在する場合、非日常である
場合に比べて相互の依存が発生する確率が非常に高くなります。
なぜなら、奴隷が主に「答え」を求める回数や機会が増える
からです。日常的な悩みや判断に困ること、苦手なことや知らないことなど
日常の中には奴隷が主に答えを求めたくなる場面がたくさんあります。
けれども、気を付けないと奴隷は主が答えを与えてくれないと
動けなくなり、また逆に主は奴隷に答えを与えることに夢中になってします。
そして気づかぬ内に共依存状態になってしまいます。
その意味で、主従を日常として長く関係性を構築できておられる
パートナーさんたちは本当にすごいと思います。
よほどこの依存関係について高い意識をお持ちなのだと思います。
私はこの主従関係に潜む「依存」の臭いにかなり敏感に反応
してしまいます。潔癖といってもいいくらいかもしれません。
私の奴隷には、惨めで淫乱なマゾ奴隷であったとしても
一個の自立した個体として存在して欲しいと思っています。
長くなりましたのでとりあえずこのへんで。
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人が取る行動は大きく二つに分かれます。
一つは「SMを日常として生きる」道であり、
もう一つは「SMを非日常として生きる」道です。
そして私は、SMの非日常性にとてもこだわりをもっています。
といっても「SMを日常として生きている」方たちを否定する
気持ちはまったくありません。むしろ尊敬の念を抱いています。
夫婦のSMカップルなどはその最たるもので、
そういったお二人のお話は本当に勉強になります。
私が仲良くさせていただいている数少ないS男性のうちのお一人も
「SMを日常として生きる」道を選ばれた方です。
この方は自分の変え難いS性に気づいたときに
「通常の恋愛も結婚もあきらめよう、その変わりSMに生きる」と
覚悟を決められたといいます。
その腹のくくり方本当に尊敬できます。
けれども、だからといって私が
「SMを日常として生きること」が出来ないから「非日常にしている」
のかというと、それはそうではないのです。
私にとっては、SMは非日常であるべきで、非日常であるから大切なものなのです。
そう、太陽の降り注ぐ青空に、ひっそりと輝く銀色の月のように。
そのこだわりはS男性の中でもかなり明確な方だと思います。
私は、私の奴隷に自分の本名、仕事の具体的内容、住所、家族構成、
携帯電話番号など自分の日常を一切教えません。
また奴隷についても、調教上必要な情報以外のことを
私から知ろうとはしません。
基本的にメールだけが私と奴隷、つまり日常と非日常をつなぐ
細い糸の役割を果たします。
私がここまで非日常にこだわるのかの理由はいくつかあります。
まず、「SMは構造的に非生産的な依存関係を生み出しやすい」
ことがあげられます。
私は私の奴隷に対して、私の支配に絶対的な服従を捧げることを求めます
けれども、私に依存することは求めません。
服従することと依存することは似ていますが全く違うものです。
服従とは一個の独立した存在が、誰かの足元に跪くことを
自分の意思で選択し、自らの考えで自らを捧げることです。
一方、依存とは一個の独立した存在であることを放棄して
誰かと融合し、溶け合おうとする欲求に他なりません。
SMや主従関係というのは、この依存関係が発生しやすい
構造をしています。まあそうですよね、一方に絶対的な権限がある
わけですから。
奴隷が主に依存するだけならばまだましですが、実は主も
奴隷に依存してしまうことが、本当によくあります。
それは主が奴隷の存在を自らの自尊感情を満たすために
必要不可欠な存在と感じてしまうことでよくおこります。
こういった相互の依存関係を「共依存」といいます。
私は主従関係に「依存」は不要なものだと思っています。
まあある程度の「依存」なら仕方のない部分があるとは
思いますが、過度の依存は関係性自体を崩壊させる結果を
招くものだと思っています。
主従関係が日常生活の中に存在する場合、非日常である
場合に比べて相互の依存が発生する確率が非常に高くなります。
なぜなら、奴隷が主に「答え」を求める回数や機会が増える
からです。日常的な悩みや判断に困ること、苦手なことや知らないことなど
日常の中には奴隷が主に答えを求めたくなる場面がたくさんあります。
けれども、気を付けないと奴隷は主が答えを与えてくれないと
動けなくなり、また逆に主は奴隷に答えを与えることに夢中になってします。
そして気づかぬ内に共依存状態になってしまいます。
その意味で、主従を日常として長く関係性を構築できておられる
パートナーさんたちは本当にすごいと思います。
よほどこの依存関係について高い意識をお持ちなのだと思います。
私はこの主従関係に潜む「依存」の臭いにかなり敏感に反応
してしまいます。潔癖といってもいいくらいかもしれません。
私の奴隷には、惨めで淫乱なマゾ奴隷であったとしても
一個の自立した個体として存在して欲しいと思っています。
長くなりましたのでとりあえずこのへんで。
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この記事へのコメント:
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はじめまして。
突然ですが質問させていただいてかまわないでしょうか?
銀月雅人さんのこだわられてる主従というかたち、ご自分の素性を明かさず・・・とのことですが、奴隷になられる女性は不安になることはないんでしょうか?
また、お相手となる奴隷の素性は把握されるのですか?
このカテゴリでブログを綴りながら、他の方のブログを拝見させていただくと“SMの世界は狭いようで広いんだなぁ”と改めて思います。
突然ですが質問させていただいてかまわないでしょうか?
銀月雅人さんのこだわられてる主従というかたち、ご自分の素性を明かさず・・・とのことですが、奴隷になられる女性は不安になることはないんでしょうか?
また、お相手となる奴隷の素性は把握されるのですか?
このカテゴリでブログを綴りながら、他の方のブログを拝見させていただくと“SMの世界は狭いようで広いんだなぁ”と改めて思います。
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[はじめまして]
柚弥
コメントとご質問ありがとうございます。
質問にお答えしますね。
結論からお伝えしますと、私の奴隷が
私の素性が分からないことで不安になることはないです。
(少なくとも私はそうだと思っています)
私の場合、私の考え方ややり方を説明し、
理解、納得してもらった上ででしか主従関係を結びません。
つまり「素性がわからないことが不安だ」と感じ
主従関係のネックになると思われる人とは
最初から主従にはならないというほうが正しいですね。
そして逆に私は私の奴隷の日常に関する情報も
調教に関係するところ以外は特に知ろうとしません。
そうですね。
狭いように見えて、広い世界ですね。同感です。
また遊びにきてくださいね。
コメントとご質問ありがとうございます。
質問にお答えしますね。
結論からお伝えしますと、私の奴隷が
私の素性が分からないことで不安になることはないです。
(少なくとも私はそうだと思っています)
私の場合、私の考え方ややり方を説明し、
理解、納得してもらった上ででしか主従関係を結びません。
つまり「素性がわからないことが不安だ」と感じ
主従関係のネックになると思われる人とは
最初から主従にはならないというほうが正しいですね。
そして逆に私は私の奴隷の日常に関する情報も
調教に関係するところ以外は特に知ろうとしません。
そうですね。
狭いように見えて、広い世界ですね。同感です。
また遊びにきてくださいね。
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